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ストーリーズ

ドットール・クラウディオ・コスタ──自由こそが、最も確かなプロテクション

公開日:2026年2月7日
執筆者:ダイネーゼAGVジャパン編集部

「1957年4月22日、私は16歳でした。アウトドローモ・ディ・イモラは開業してまだ4年しか経っておらず、父のチェッコ・コスタはその創設者の一人でした。新しいこの世界を支える人物の息子として、イモラでは多くの扉が私に開かれていました。
ピットを走り回り、ライダーたちと顔を合わせるのが日常だったのです。それはごく当たり前のことでした。」

しかし1957年のコッパ・ドーロでは、もっと刺激的な場所からレースを体験したいという誘惑に抗えませんでした。私は、父なら決して許さなかったであろうアックエ・ミネラリへ向かいました。
コスタという姓と、若く笑顔の顔立ちは非常に有効な通行証となり、監督者は私を中に入れてくれたのです。

クラウディオ・コスタの出発点

木の陰から、当時最高のライダーたちが駆け抜けていくのを見ました。リベラーティ、マセッティ、デューク。そして私の目の前で転倒したのが、イギリス人ライダーのジェフ・デュークでした。
ただ立って見ていることはできませんでした。私は反射的にコースへ飛び出し、彼を安全な場所へ引きずり出し、続いてマシンも同じように移動させました。
その瞬間、私はもはや規則破りではなく、誰かにとって特別な存在を救った英雄のように感じていたのです。」

若き日のクラウディオ・コスタにまつわるイモラでのエピソードを象徴する写真

医師としての使命と改革

これは、モーターサイクル史上もっとも有名な医師、イタリアでは「ドットール・コスタ」として知られるクラウディオ・コスタの証言です。
イモラでのこの出来事は、彼個人に深い印象を残しただけでなく、競技そのものの歴史を大きく変えるきっかけとなりました。

「父は翌日、新聞でこの出来事を知りました。そして結果は、私が期待していたようなものではありませんでした。少なくとも完全には。
褒められると思っていたのに、規則を破ったことで激しく叱責され、私は泣き出してしまったほどです。
ただ、父はこうも言いました。『クラウディオ、これがお前が一生やることだ』と。」

それは予言でした。若きクラウディオ・コスタは10年後に医学を修め、その後まもなく、生まれ故郷イモラでサーキットドクターとして働き始めます。
そして当時のサーキットにおける安全管理体制が、不十分であることにすぐ気づきました。

「当時のやり方は、転倒したライダーを救急車に乗せ、最寄りの病院へ運ぶというものでした。
しかしその必死の搬送の中で、多くの命が失われていたのです。
私はこれを根本から変えたかった。助けが向かうべきなのは、ライダーのほうだったのです。」

クリニカ・モービレ初期の活動を記録したアーカイブ写真

移動式クリニックの発足

クラウディオ・コスタは、明確なビジョンを持ち、現実にしっかりと足をつけた革命家でした。
やがて彼の打ち出した新しいサーキット救護の概念は、世界中のすべてのサーキットで採用されることになります。

「イモラでは、サーキットに必要なものをすべて整えました。そのため、私がイモラで働いていた間は、それ以上のことをする必要性を感じていなかったのです。
偉大なバリー・シーンがこう言ってくれたことを、今でも嬉しく思い出します。『転ばないに越したことはないが、どうしても転ぶなら、コスタが助けてくれるイモラで転べ!』と。

その後、世界選手権のすべてのサーキットに出向き、私のサービスを提供するようになりました。しかし、そこで私が直面した施設環境は、イモラで築いてきたものとは比べものにならないほど貧弱でした。
組織というものが、完全に欠けていたのです。」

そのとき、クラウディオにひらめきが訪れます。
組織化された診療体制でありながら、すべてのレースを追って移動できる「移動式クリニック」が必要だ、と。

「このアイデアを現実にするには、多額の資金が必要でした。そこで助けてくれたのが、AGV創設者のジーノ・アミサーノです。
彼は父の親友でもあり、私もよく知る存在でした。二人は協力して、最高峰のライダーを集めた『イモラ200』というレースを生み出しました。
アミサーノは、欠かすことのできない財政的支援をしてくれました。集中治療と麻酔科医を備え、病院へ搬送する前にライダーの状態を安定させるクリニックが必要だと、彼は即座に理解してくれたのです。」

コスタのクリニカ・モービレAGVは、あのイモラでの予言的な出来事からちょうど20年後となる1977年5月1日、ザルツブルクで開催されたオーストリアGPで正式にデビューしました。

「まさに洗礼でした。初回のイベントから大事故に対応しなければならなかったのです。
350ccクラスのレースでフランコ・ウンチーニが転倒し、その事故はパトリック・フェルナンデスやジョニー・チェコットを含む複数のマシンを巻き込みました。
私たちは3人全員の命を救いました。」

これは、のちに何百人もの名前が連なることになるリストの、最初の数名にすぎませんでした。
この瞬間から、コスタの王国は着実に勢力を広げていきます。

「クリニカ・モービレは、別の側面でも活動していました。
必要とするライダーに治療を提供する一方で、予防こそが最良の治療だと考えていたのです。
私たちは主要なウェアメーカーやヘルメットメーカーと数多くの共同作業を行いました。

AGVは単なるスポンサーではなく、真のパートナーでした。Daineseもまた、私たちに対して非常にオープンでした。
ジーノ・アミサーノとリーノ・ダイネーゼの両名は、クリニカ・モービレを一種の図書館、つまり、より優れたプロテクションを開発するうえで不可欠な情報の宝庫として捉える先見性を持っていたのです。」

1990年代のレーシングシーンとクリニカ・モービレの活動を示す写真

プロテクションの技術革新

その一例がグローブです。
1990年代初頭、手のプロテクションはほとんど進歩しておらず、その代償を大きく払っていたのが、プロライダーたちの小指でした。

「小指は手の中で最も露出している部分で、最初に地面に接触し、バイクの下に巻き込まれやすい指です。
当時のグローブでは重傷を負うことが多く、これほど小さな部位を治療するのは非常に困難でした。

まず、アスファルト上でのスライドに耐えられる縫製を持つグローブを、Daineseとともに開発しました。
次に、特に小指に焦点を当てました。他の指はそれほど露出していなかったからです。
革と内張りの間に金属製の耐切創メッシュを埋め込むほど、この小さな空間に可能な限りのプロテクションを詰め込みました。」

しかしコスタは、常にさらに先を見据え、問題を先取りする人物でした。
事故の数を減らすにはどうすればいいのか。答えは簡単、転倒の数を減らすことです。
しかし、ライダーに転ばないようにさせるなど、不可能に思えました……。

「私は、プロテクションだけでは十分ではないと理解しました。
どれほど効果的なプロテクターでも、不快だったりかさばったりすれば意味がありません。
ライダーを騎士の鎧で包めば安全かもしれませんが、それでは走れないのです。

プロテクターは、守る以前に、自由な動きを保証しなければなりません。
ライダーを快適にすることでこそ、サーキットの安全性を本当に高められるのです。」

プロライダーなら誰に聞いても同じ答えが返ってくるでしょう。
走行中、特に大きな負担がかかる部位の一つが前腕です。
激しい加速、ブレーキング、そして当時は不可欠だったクラッチ操作は、ライダーの持久力を極限まで試します。

「当初、スーツの袖はすべてレザーで作られていました。丈夫ではありますが、柔軟性に欠けていました。
Daineseとともに、転倒時にあまり露出しない部位が腕の内側であることに着目し、そこにストレッチ素材のインサートを使うことを試みました。
新素材によって血流は大幅に改善され、筋肉により多くの酸素が供給され、機能が損なわれることはなくなったのです。」

未来を見据えたエアバッグ技術

私たちは、ドクター・コスタにさらに大きな功績を負っています。
2000年代初頭、彼はモーターサイクル用として初の電子制御エアバッグ、D-air®の開発に大きく貢献しました。

「私が特に強く主張した点が一つあります。
エアバッグは、転倒した後ではなく、転倒する前に作動しなければならない、ということです。

エアバッグは、まさに夢の実現のような存在です。
本当に必要になるその瞬間まで、存在を感じさせることなく守ってくれる。
そして自由な動きこそが、最初で最も確かなプロテクションなのです。」

ダイネーゼAGVジャパン編集部のアバター

ダイネーゼAGVジャパン編集部

ダイネーゼAGVジャパン編集部は、イタリア発のモーターサイクルウェアブランド「Dainese(ダイネーゼ)」およびヘルメットブランド「AGV(エージーブイ)」の日本正規輸入元として、製品情報・アスリートのインタビュー・ブランドの今を発信する編集チーム。 ビギナーからエキスパートまで、ライダーの安全性を最優先にした情報提供を行っています。

2026年2月7日公開
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